言葉にして救われることがある。本来の言葉の在り方を思い出す。(長いけど読んでほしいです。)
ごぶさたしています。
さっそく本題。
ここ数日で思い至ったことがあります。
私たちはその言いたいことのほとんどを言葉にしていないということ。
世間体、常識、思想などの外部の環境に私たちの言葉は絡めとられてしまっているなと。
その代わりに発する言葉というものは幾重にも包み込まれた本質から離れたものになっていることのほうが圧倒的に多い。
またはなにものにもならずに呑みこまれてしまう。
はたまた、突然変異して他者を傷つける凶器になる。
そのなんと不自然で不健康なことかと、思った。
私が夏から書き始めたこのブログもそうだ。
外部のいろいろを考え、恐れ、何度も言葉を選び直しながらようやく発信する。
その後に残るのは、疲労と不安のが多い。
吐き出したくて、言いたいことを言いたくて、伝えたいことがあるから始めたはずなのに、結果自分をすり減らしていた。
SNSもそう。
違和感を感じながらもわずかな達成感を希望にしていたけど、どうもやっぱりダメだった。
ちょっと離れて考えていた。
すると、際限なくある言葉っていったいなんの為なんだとか、そもそもなんで言葉があるんだとか、思考はキリがなくて。
でもその思考の赴くままに思い巡らせてみた。
その必要があると強く感じたから。
子供たちを想う。
10歳を前に、いかに偽り虚勢を張り自分を守るか、全ての情熱を言葉にそそいでいる。
こわくなった。
まっすぐに想いを発しても、おとなに届くことはほとんどない。
だから偽る。
その巧妙さにゾッとする。
素直に喜び、感謝し、謝る。
それができなくなっている。
そういう環境を作り上げてきたのは、私たち大人だ。
子どもにそうさせているのは私たち大人だ。
でもその大人もそういう子ども時代を経てきたのだ。
苦しいなあ、もうやめたいなあそういうの、と思った。
心を平らに平らにして考えたら、言葉があるのなんて、「生きるため」「守るため」「繋げるため」なんだって、簡単に思い至るのに。
とっさの危険を知らせる、愛を伝える。
言葉の役割はそれだけでそれがすべてなんじゃないの。
先日、朗読会をしました。
偽りが許されない状況となり、子どもたちは丸裸になった。
無理難題にみんな逃げずに向き合った。
でも、対する想いの差がくっきりと浮き彫りになった。
もちろん、それを意図して企画したわけではないけど、私は彼らに気づきをもらった。
とても大切な気づきだ。
顕在的には彼らはまだ今回味わった想いの差は味わったものの忘れているかもしれないけど、潜在的には残るものがあると思っている。
丸裸で朗読した彼らの言葉は、ただしく使われた純粋な言葉だった。
おもしろいもんで、またやりたいって言うよ笑
私は疲れるので怯んでいるけど、やるよ。
私たちは、本当に言いたいことの半分も言葉にできていない。
(いらんことはよーゆうてます。)
ルルについて。
「身体がいやっていう」とよく言っていました。
自分の本心にウソをつけないんだね。
私はそれを受け入れたことで、私の想いはルルに伝わっていると思っていたけどそうじゃなかった。
何気ない会話で、学校に行かないことでまだ不安をかかえていることがわかった。
「ルルはなにもまちがってない。」
思わずそう言った時、ルルの目の輝きは確かに増したし
なにより、
私の心がザッパーーンと洗われ、軽くなり、救われた。
事実、最近の彼女ときたらよく食べよく笑いうし、ほっぺも唇もいい色をしている。
それ以上望むことがあるだろうか。
想像以上に私たちは生き下手口下手になっているよう。
ただただシンプルに、自分と大切な人を守るためにまっすぐに丁寧に言葉を紡ぎたい。
ばかみたいに根っこのことを言ってきたけど、私自身が本当に忘れていたので
備忘録の意味もこめて。
そして、私のような人に届き、ひとりでも多くの小さな心の叫びが汲み取られますように。
ただただくもん愛をたらたら書くだけのブログのはずが、思いのほか自分を深掘りすることになった。
これからもどう変化するかわからないけども、ヘタクソなりに正直に書いていきたいと思います。
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