なぜ「学習」するの?
これはブログをやるにあたって、できるだけ早くにとりあげておきたいテーマだった。
ブログの軸になることだから本当は最初に書いておかなきゃいけないことだった~。
結論からいうと、「学習」=「お勉強」ではないということ。
じゃあいったい何なのさ?
ってことを書きたいと思います。
さてさて、自分なりのこたえが出てきたのがやはりコロナ禍だった。
学校からけんめいに渡される宿題、そのルルの取り組みをみて
唖然。
予想以上に学校の学習についていっていなかった。
くもんをやっていれば、学校でも徐々にできることがふえていくだろうと
(くもんは英数国の根幹となる部分の学習だから)
勝手に思っていたからだ。
ルルのできっぷりといったら、こんなわからないでよく学校に行っていたなと
感心してしまうほどだった。
そこではじめて学校の教科書をひらいたワタシ。
「・・・」
感想は言わないけど、もうルルに申し訳ないきもちでいっぱいに。
一刻もはやくこの休みのあいだに学校の学習に追い付かせよう!と
しゃかりきになった。
もちろん平行してくもんもやった。(休校中はくもんの教室もやすみになり、教材のやりとりだけおこなわれた。)
なんとか提供された宿題はやりとげ提出したのだけど、ふと思う。
「そこに愛があるのかい?」(本気)
「今そこになにがあるんだい?
わたしたちは血を吐く思いで学校の宿題をやりきったが
そこになにが残ったんだい?」
それは、絶対的に「教科書の内容がわかった」つまり「お勉強ができるようになった~♪」
ってことではなかった。(じっさいほとんどわかってはいないし)
残ったのは、期限は過ぎたけどやりきったことへの「達成感」と「自信」だった。
内容がわかっていようがなかろうがもはやどうでもよく、親子で血を吐く思いで
やりきったことで、「勉強ができる」以上のものを私たちは得た。
その事実は確実に、私たちの人間としての力を底上げしてくれた。
その人間としての力とは、「忍耐力」「向上心」「協力(思いやり)」といえると思う。
それらは「生きる力」だと思う。
今後地球が、コロナを踏み台に新しい社会を築いても、
なんらかのきっかけで荒廃し血肉を奪い争う弱肉強食の原始の時代になったとしても
「生きぬく力」なんだと思う。
その「生きる力」を得ることが「学習」なのではないかと思います。
ひとが生まれてから最初に目覚めるのが「自己防衛本能」なら、
最初にぶち当たる壁は「学習」なのではないかと
前回の投稿と重なりますが、壁を乗り越えたときの喜びを知り、にやつきながら
壁に向かっていき、どんどん「生きる力」をつけていってほしいし
ワタシ自身も死ぬまでそうでありたいなと思っていまーす。
貪欲に生き抜こうぜ、できればじょうずに。
そんな気持ちで、ルルモモの学習にかかわっていまーす。
そんなこんなでくもんはできるだけ長く、ながく、永く続けてほしいと願う。
くもんの学習はその点を見据えているし、普遍的な要素が多いと思うから。
なにより、どんな学習法より親子の負担が少ない!!
それ大事!!
そこについても追々書きまーす♪
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