私にとってのペン習字とは。
公文書写でペン習字をはじめて、まるっと2か月。
はじめて握る万年筆、ペン先の方向やら持ち方やらまったくわからんゼロからのスタート。
ふるえるわ肩こるわ指つるわ形状記憶するわで、最初は試練でしかなかった…
意地と根性で毎朝、毎晩「クモンタイム」を設け、ひたすらに教材をさばいた。
今ではなんとか慣れてきて自然といいかたちでペンを握れるようになり、平仮名はリラックスして書けるようになってきたところだ。
公文書写は「美しい字(書体)」の独自の基準を設けていて、バランスのいい誰が見ても美しいと感じる実用的な書を書けるようになることを目指す。
今でこそZoomだYouTubeだと騒いでいるけど、私の根っこはここにある。
子どものころ習った「お習字」。
6年間通って結局楽しいと思うことはなかったけど、おとなになるにつれて「字が書ける」ことが尊いことに気づいた。
重要書類のサインは今でも手書き。
何も思わずに書いていたけど、これが苦痛でしかたない人がいることを知った。
「自分の字を見られたくない」というのだ。
私は決して自分の字に自信があるわけじゃなかったけど、これまで字をコンプレックスとしてこなかったのは、6年間の習字人生で指導され少なからず評価されてきたからだと思う。
恵まれていたんだなあと、いい齢になってから親に感謝したりする。
ルルとの生活がはじまってからは、とくに「書く」ことにこだわりはじめた。
あえて「手書き」で手間を選んでいた。
チラシも手紙も年賀状も、手で書いた。
「アナログだから~」とうそぶいていたけど(実際得意なほうではなかったけど)やってできないことは正直なかった。
でもあえて「手書き」の手間を選んでいたのは、もちろん好きではあったけど、一番の理由は「時間の感覚をえるため」だったろうと思う。
ずっと子どもといることは当時の私にとっては1時間1分1秒が精いっぱい。
そんな先が見えないトンネルを歩いているような生活のなかに、「成し遂げた」という時間の区切りをつけたかったから。
同時に達成感を得て、自分の存在を確認する作業でもあった。
今は仕事という母以外の居場所があって、住む場所も変わり、なんやかんやと生きるうちにずいぶんと変わってきた。
「書く」ことは今でも変わらず大切で好きだけど、年賀状はルルの絵を印刷しているし(しかもねこもりやに丸投げ)顧客に向けたおたよりはネット配信だ。
そんななかで始めたペン習字は、私にとってどんな存在なのか?
ずばり、「ブレーキ」。
どんな時代に生きようとも、流されず自分を見失わないための「ブレーキ」。
以前の私にとっても書く理由は同じだった。
でも出口に向かって突っ走る「アクセル」か「エンジン」だったと思う。(笑)
そしてその先にあるのは変わらず、「浄化」。
どうにもこうにも、私は「手で書く」ことがやめられないようです。
あ、だから絵も描くのかな。
そうなんだろうな。
とにもかくにも、公文書写、おススメです♡
↓↓↓こちらは友人(と呼ばせていただきました!)の「歩く書道教室Omoi」主宰の佳心先生に書いていただいた書。
スケールがちがうぜ。
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