日本一うるさくて愛しい教室。
さあ、コロナ禍新生活第2弾(第3弾?)が始まった我が家。
それより以前から徐々に意識の更新が私にもあって、「もう、元気で教室に来てくれるだけでよい」と。
新米くもんの先生である私は、やはりマニュアルが第一で。
もちろんこれは今もそうなんだけど、もっともっと立ち返ったところを思い出してみると、公文公会長への理念への共感、尊敬、愛がある。
ただただこの人がスキ、という原点中の原点。
そこで私はとりあえず会長の書籍、動画、文献を掘り返した。
そこから教室と生徒と向き合い直してみようと思った。
そうして降りてきた想いは、誰も何も悪くない、誰も何も知らない、何もかもがそれでいい。
いや、ちがうな。
これは今に至った想いだなぁ。
公文会長の言葉でいうと、「未完成であることの自覚」。
それまでの私は、公文式とは、学習とは、指導者とはとガチガチしていた。
それでがむしゃらにやってきて、1年を前にしてのコロナ騒動。
正直ホッとした。
知らず知らずのうちに心身を追い込んで、それが普通になっていてというのが現代だと思う。
それがイヤで山で自宅で子どもに寄り添った仕事を始めたはずなのに、教室の前はストレスフル!
今思えば。
でもそれが普通だと思っていた。
ストレスが普通なわけないじゃんね〜スパイスとしてのものは必要だと思うけど、心身すり減らすことがふつうなわけがない。
私のストレスは生徒に筒抜けだから、それで生徒にいいパフォーマンスをしろといっても無理なわけで。
コロナでホッと。(笑)
そしてからの教室をみると、たしかにみんな伸び伸びはできるようになっている。
でも、そこにみえるのは更なるストレス。
学校、家庭が主な彼らの社会だと思うんだけどその中でのストレスがものすごいことがわかる。
言葉にする術を知らない分、ちがうかたちで出ている。
私みたいに社会のストレスから逃げようとしない限り、彼らの将来には無意識のストレスが張り付いているのだと思うと恐ろしくなると同時に、現代の事件事故、情勢にも頷ける。
まだ逃げることはご法度でしようものなら叩かれてしまう。
でもそんなこと言ってる場合じゃない。
私はせめてであったこどもたちには「逃げる」ことをおしえていきたい。
今は叩かれるかもしれないけど、これからはそれが大切なことになってくるはず。
いや、私たちおとながそうしないといけないと思う。
ルルはそのことに本能的に気づいたのだと思う。
このままでは自分はつぶれてしまうと。
私も今ははっきりと言える。
おとなが言う一般論なんてクソくらえだ。
とっくに賞味期限が切れたものを無理矢理食べろと言っているのと同じだ。
今のおとなが言うことなんてこどもは潜在的にとっくにわかっている。
わからないといけないのは私たち大人の方。
公文会長は「こどもから学べ」とずっと言ってこられた。
それは公文式指導者の私たちの根底に常にある。
今私にはちがう角度からこの言葉が響く。
時代は変わる。
時代時代に則したやり方があり受け取り方がある。
私はくもんの先生だけど、今の時代のくもんの先生でありたいと思う。
「変えてはいけないもの」と「変えなければいけないもの」を素早く判断していくこと。
「何も知らない」と思われている存在が本当は一番知っている、成長と言われるのは今は体ばかりで大切なことはどんどん忘れていく。
宝ものを捨てていたのは私の方だ。
ルルが心身を削って私におしえてくれている。
そこで私に何ができるか、「逃げる」は正しいということ、そして逃げても文句を言われない準備をしておくこと。
そのための公文式だと感じている。
生きるための土台を固める、生きる底力を上げる。
単純な作業でこそそれは育まれる。
少しずつでいいから、とにかく続ける。
ここぞというときにモノを言うのはそこ。
まわりは華やかに見えるかもしれないけど、華やかなものは刹那的。
今は日の目は見なくても笑われても怒られても泥臭く地を踏み締めること。
いざいうときに自分と大切な人を守るために。
うちの教室はうるさい。
それはみんな出すものが多いから。
いらないモノを出さないと、いるものは入れられない。
その出すものの多さよ。
出せよ。
生きろよ。
そのためにできるだけながくここにきて欲しい。
会費と保護者と研究会とのハザマで、さて私はどう立ち回るのでしょうか?
こどもたちよ、おしえておくれ。
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