じゃあ「学習」ってなんなのよ?「宇宙人」でいいんだよ。こどものころ~③
先日、長いタイトルのブログ記事
の内容で、「勉強」ではなく「学習」と言いたい、なぜなら「勉強」は気が進まないものを無理やりそうさせる意だからだと書いた。(ざっくりすぎ)
公文式でも「学習」と言うし、長いこと「勉強」という言葉に違和感を抱いていたわたしはこれからは声を大にして「学習」と言いたいと思っている。(「勉強」なんて絶対に言うもんか!)
で、今回は「学習」について思うことを書いてみます。
「学習」の意味こそ書いて字のごとしではあるのだけど、私はそこにけっこうなマイワールドを展開させている。
自分のこどもの頃を振り返る作業をしてもどうにも学校の授業どころか学校すらも前向きに捉えていたような節はない。
いわゆる国語・算数・理科・社会なんてやっていてやっていなかったということだ。
後になってわかったことだけど、両親はやはり「宇宙人」な娘を大いに危惧していたらしい。
そんな娘がなんとなく地球になじみはじめるのが小4。
ふたつの出会いからだ。
どんないきさつだったかはわからないけど、まずは女子4.5人との出会い。(ざっくり!)
その子たちに地球での生き方をおしえてもらったと思う。
幼馴染の宇宙人2号(ひどい)も含めて、お互いの家を行き来したりスポ少のミニバスに誘われて入団したりと世界が一気に広がった。
それはそれで楽しかったのだけど、反面本当の自分を保つための作業も必要だった。
それが絵や文章を書くことだった。
そのモードのときは、授業中でも休み時間でも関係なくひたすらに書き続けていた。
その様子を友人たちはどう見ていたのか覚えていないけど、異様だったと思う。
それか「またはじまった」くらいに思っていてくれていたのかな。
普通なら先生から止められそうなものだけど、担任の先生はそんなことはなくむしろ「すごい集中力、長所だ」と肯定すらしてくれた。
これがもうひとつの出会い。
うちの両親はこの先生との出会いに心から感謝している。(この先生と出逢わなければ私はグレていたんだそうな。地球人の宇宙人に対する発想はそうなるんだな!)
先生は地球人ながら(?)宇宙人の私を認めてくれた。
これは私の人生でとても大きな出来事だった。
そしてなんの因果か20数年後、当時の宇宙人の子の副担任として再会することになる・・・!!
話をもどしますが、「学習」とは。
私が大多数に受け入れられなかった作業が「学習」なんだと言いたい。
まず、
「自分のためにする」
「好きなことを追求する」
「心が満たされる」
「人にみてほしい、きいてほしい、おしえたいと思う」
決して国語・算数・理科・社会だけではない。
「あなたのやりたい知りたいことをとことん追求する」そしてそれを「アウトプット」する、これが「学習」だと思っている。
宇宙人だった私もいつしかまあまあな地球人となり、宇宙人だったころのことを忘れていった。
そうしてルルがうまれ、その宇宙人っぷりに悩んだ。
地球人が支配しやすいように宇宙人を洗脳するのが「勉強」(「教育」ともいえる?「教育」って言葉もきらいだ~)なんだと思う。
つい最近まで(今でもちょいちょい)ルルを「地球人」にしようとしていた。
それはまったく無意味で必要のないことなんだと気づいた。
「宇宙人」でいいんだよ~~~
もう本当に。
それを受け入れたほうが結果みんな幸せになれる。
でも、現実私たちが生きているのは地球社会(こんな言葉ある?)なのだ。
どうにもこうにも生きていかなければならない。
だったら、この地球社会で踊らされるのではなく自ら踊ってやるくらいの気概を持っていたい、持たせてやりたいと思う。
公文式に出会ったときはそんなことはもちろん思っていなかった。
でも今は公文式は宇宙人たちを救えるツールになりえると思っている。
学校でついていけなくても、公文式で「個人別」で「やりたいだけやれるだけ」やっていたらいつかは地球人をだまらせるくらいはできると思う。
今だってやってさえいたら文句は言われまい。
「最小時間最大効果」の公文式を武器に、自分のやりたいこと自分を保つためのなにかをとことんやってほしい!
そんなかんじでーす♡(無理やりおわる。)
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