「お勉強できる子」を育ててはいけない。「個人別」の「思いやり」に気づく37歳(もうすぐ38歳)。
今日読み聞かせした本に、「お勉強が好きな子」が登場した。
それをみてルルが言ったのが「この子、勉強すきなんじゃね。私と反対じゃー」
そのとき私がとっさに言ったのは「ルルもすきじゃん。絵かくのすきじゃろ。それも勉強よ。」
「勉強きらい」と思わせてはならぬという想いからとっさに出たことばではあるけど、本心でもある。
いや、そもそも「勉強」という言葉じたいが好きではなくて、出た言葉としても不本意ではあるのだけど。
いい機会なのでここで整理しておこうと思います。
「勉強」の意味をあらためて調べてみた。
字面からもなんとなく想像できるように、「勉め強いる」で、本来は気がすすまないことを仕方なくする意
だそうな!!
意味も知らず刷り込みのように言われ言ってきたことのおそろしさよ。(チコちゃんにしかられる。)
「お勉強がすき」といったら言われたことなら喜んでやるけど、主体性がないということになる印象だ。
公文式でも「勉強」とは決していわないことに気づく。
「学習」という。
そもそも学力をつけることを目的とはせず、学力を通して主体性、考える力、選択眼をはぐくむことを目的としている。
「勉強」とは正反対のものを目指していることになる。
私もその公文式の理念に共感したからできればルルモモにやってもらいたいと思っている。
確かに公文式でも子どもの将来を考えてできるだけはやくに高い学力(学年をこえてすすむ)ことを勧めるけれど、最初はルルもはやく学年に追いつけば学校も楽しくなるだろうし自信もつくのではと期待していたけれど今はその想いはなくなりつつある。
ルルはなにをのぞんでいるのか?の方が大切だと思い始めたから。
なんどもなんどもなんどもなんども・・・・∞とにかくやらせようと「あなたのため」と大義名分を掲げて叫び続けてきた結果の考え。
こうして文字にしてみると安易であっけない印象だけど、実際はとんでもない葛藤と格闘の日々があった。(ほんと文字化ってむずかしい)
「あなたのため」は結局は「私のため」で押し付けていただけ。
「勉強」させようとしていたのだ、私も。
ルルが天然で抗ってくれたおかげで気づくことができたと思う。
「学習」も個性の開花の一端で、はまる子もいればそうでない子もいる。
でもはまらないからといってやめるのではなく、その子にあったやり方で続けることは必要だと思う。
「イヤならやめればいいんんだ」という思考がすべてに通用すると思ってはいけないからそこは大切だと思う。
子どもが自分で判断できるようになって、やっぱり違うと思ったら話し合ってやめればいい。
それができたら主体性がはぐくまれているということで、親として喜ばしいことだ。
これが公文会長のいう「個人別」ということなんだとあらためて気づいた。
また親目線と第三者目線はまったく違うから大変だ。
そこの相違を冷静に俯瞰できる力は私ができるだけはやくに身につけたいところ。
それが相手の立場に立つ、気持ちを慮る、思いやりを持つということなのかな。
文字にすると実に初歩的なことでわらけてしまうけど、37ちゃいは今ようやくこのラインに立てたところですよ。
38歳になる前でよかったよ、ギリ。
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