38歳と9歳はどこがちがう?「わからない」を「知る」!
リアルな親子の年齢だから、
関係性でいうと親と子はもちろん、教師と教え子など、
圧倒的な差があるようにみえる。
29歳差という、生きてきた年数にしても
圧倒的な差。
この差で自然と成立してしまう態度や立場がある。
敬意を表するのは必要なことで大切にしていきたいと
思っていることは前提として、正直なことを言うと
「しんどい」。
すんません。
親子のことを言いますね。
リアルにルルと私の年齢なんで。
ルルを産んでから最近まで、私がルルに掲げていたことはひとつ
「完璧でなければならない」。
なぜか?
「相手の家族の手前、いい子と思われるように」
「マニュアルが絶対」
「自分ならできるという自尊心」
「自分のようにならないように」
・・・しっちゃかめっちゃかでしょう。
でもどこか納得するという方もいらっしゃると思う。
そして疲弊していらっしゃると思う。
圧倒的な関係性と年齢差でねじ伏せることは
共倒れだから。
ねじ伏せるということは、考えの軸足を自分だけにおいているということ。
相手のことを何ひとつ尊重せずねじ伏せて、
納まっているようにみえても
結果、だれも幸せになっていない。
心の底では、幸せにしたいのにね。
わが子を幸せにしたくて、一生懸命なだけなのにね。
じゃあどうするか。
「しんどい」ということを認めてしまう。
そして、関係性と年齢差はふりかざすものではない
取るに足らないものであると知ること。
どう知るか、つまりどう納得するかは人それぞれの
環境やタイミングによりけりでなんとも言えないけど・・・
わたしの場合をお話しすると
やっぱり「コロナ禍」だったと思う。
メディアに翻弄され、多少なりとも不安を抱えて生活する
おとなたちの横で、こどもたちはひたすらに純真でいて
何ひとつ変わることなく、何よりも強く映った。
そのこどもの姿に知らず知らずのうちにおとなは
救われていたはず。
少なくとも私はそうで、ルルは水を得た魚のように
生き生きと輝きだし、たからもの(生きる力)を
どんどんつけていった。
ほかの子もそうで、ささいなことで喜び合う姿は
大切なことを思い出させてくれる力が確かにあった。
当時はつらいこともあったけど、最近になって
思い返してみると固定概念としてあった「関係性」や
「年齢差」は吹っ飛んでいた時期だったんだと気づいた。
気づいてすぐに変わるものでもなく、気づいたところで
忘れないでいられることがないのも事実だから
それはこどももわかっているから
それでいいと思う。
甘えていいと思う。
38歳が9歳に甘えても、9歳が2歳に甘えても、
80歳が20歳に甘えても逆でもなんでも
こどもだからわからないというのはなくて、
わかることがそれぞれ違うだけなんだと思う。
最近はルルにハグしてもらったりすることもある。
モモにハグしてもらうこともある。
ルルがモモに、モモがルルにももちろんある。
(モモはウチでいちばん母性が強いんじゃないかと思う)
「できないから助けて」と言う。
自分の抱えるものを分けさせてもらう。
おとなはからだが大きい分、弱さもつらさも多いのかもしれない。
それを認めて、分ける。
「お願い」「ありがとう」の言葉があれば大丈夫。
で、算数のはなしですよ。
小5の算数で分数の計算を見させてもらったんだが・・・
私も学びなおしたくて一緒にやらせてもらってるんだが
「ここ、途中計算すっとばしてなんでこたえでるん・・・⁈」
「・・・次から途中式書くよ」
なんかすんません!!
おしえてもらうことばかりです。
「わからない」を知る、ということが大切なんじゃないかと
思います。
そして、少しずつ「わからない」を「わかる」に変えていく。
生きることが学びであるなら、その繰り返しなんじゃないかと
思います。
それにしても、文章を書くってむずかしいね~~
想いを文字化するって大変な作業だネ☆彡
のちのち修正いれていきまーす。(笑)
読んでくださりありがとう。
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