「こどもから学ぶ」。ルルから学ぶ。
公文会長の語録のひとつであり、公文式の理念に「こどもから学ぶ」という言葉がある。
公文式のきっかけは会長が自身の息子さんのために手作りした教材。
その手作り教材で小学生のうちに高校数学の微分積分に到達したわが子を見て、会長はこの学習法をより多くのこどもにと公文式を発足。
それから今日までひたすら実験検証の公文教育研究会。
時代が変われば人は変わる。子どもも変わる。「教育にこれでいい、はない。終わりはない」
公文式が研究会たる所以だ。
発足から62年。
戦後の日本の時代を併走しながら、その時代時代の教育に対応してきた。
一貫してきたのは、「大人目線のむずかしい、できる、できない」ではなく常に「子どもにとってどうだ」の姿勢。
そうして難関の中学高校大学進学に貢献したと謳われてきた。
それで保護者は万々歳、将来保障されたも同然。
でも公文式が目指しているのは「その先」であり「それに付随するもの」であるのも変わらない。
「自分で考え、行動し、検証し、選びとる力」それは時代を「生きぬく力」であり、いつの時代も不変なもの。
「NO」には「NO」を言える力、そして「これはどうだ」を提案できる思考力と言語力を。
私は公文会長を心から敬愛し、公文式の理念に心から共感しながらも、この想いで携わっている。
公文式の理念であることは確かなんだけど、「しながらも」、というのは時には公文式に対しても私自身その想いがあるから。
まだ教室を開設して1年半の未熟者。
でも「生徒ファースト。生徒家族ネクストファースト(こんなことばナイ。)」の精神でやらせていただいております。
なぜかというと、私自身がその力を持っていないから。
持っていないがゆえに取りこぼしてきた多くのものがあるから。
せめてこれからの自分と、わが子と、教室で出逢う人たちにはそんな想いはさせないように、公文式の力をかりている次第。
なので、今は誰よりも公文式を知ろうと奮闘している日々であります。
そこで本題に戻りますが、そのためにはやっぱり「こどもから学ぶ」がいちばん!
とにかく目の前の人を徹底的に受け入れる。
そうして、自分の理念に重ねてみる。
すると、あ~~~ら不思議!言動のその向こうが見えてくる。
うちの教室ではとにかく自由。
ひとりひとりの適当な教材は渡してあるのだけど、やるもやらないも本人次第。
いつもちゃちゃっとやる子が話し出して止まらないとき、それに流される子、いつも元気で学習中も騒がしい子が黙々と学習するとき、本当に様々。
つまり、みんなたくさんのことを抱えているということ。
でも、ここに来ることを選んで来た。
私はまずそのことを汲みたい。
来ることでかかえたいろいろの何かが浄化できればいいと思っている。(もちろんここにセカンドファーストも考慮しますが)
すべては自分の意志であることが大切だと思っている。
ルルにしたって、学校に行かないことを選んで好きなことに集中すると決めている。(いまのところ)
それを容認している保護者も保護者であるが(ワタシ)、型抜きおにぎり行進に「NO」と言えていることは公文式の目指すところになっているではないか。
今はまだ逆風吹き荒れているけれど、キミがそうなら私もそうするまで。
こどもは受け入れてあげないことには、何をしてもコトにはならないと感じている。
カタチだけ取り繕って学習させたとしてどうにもならない。
「伸ばすために受け入れる」
そんなんで、うちの教室はどこよりも騒がしく混沌としているようですが、怒られるでしょうが、考えがあってのことだということで、大目にみてちょ!
ドロン!
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