Mottainai(モッタイナイ)精神バンザイ!
スキな言葉です〜
うちの家族の意識は「モッタイナイ」からわりと離れたところにあるのだけど、不思議なことに私の根底には「モッタイナイ」精神が脈々と流れている。
イヤ、気づいたのかな。ひとりで暮らしはじめて目覚めたのかもしれない。
「節約」ももちろんしていたけど、きっかけはそれだったかもしれないけど、「モッタイナイ」は「不便」を選ぶことで「不便」は「時間」を選ぶことで、そういう意味では「節約」とはイメージが真逆で「贅沢」なことではないかと思っている。
時間をかけて労力を注いで生活を営むことは心豊かなことであり贅沢なこと。
その頃に知ったひとつに「始末の料理」というのがある。
京都の文化だったと思うけど(ウロ覚え)食材の皮や葉や根も余すことなくいただくことで、生ゴミというものはほとんど出さないところから「始末」というのだと。
今の時代、あまり受け入れられない精神であるみたいで私もよく「ケチくさい」と言われてきた。
でもすべてを使い切り後に何も残さないことほど清く美しいことはないと思いませんか?
それに今、不要とされている皮や根にこそ栄養や旨みがありエネルギーに満ちていることを「モッタイナイ族」の私たちは知ってしまっている。
なんでこんな話をするのかというと、この「モッタイナイ精神」がヒトそのものにも当てはまるのではないかとつくづく感じてしょーがないからである。
そんなモヤモヤに光を射してくれたのが公文会長だった。
ひとは生を営む能力を等しく携えて生まれ落ちる、その能力を最大限に伸ばす伸ばさないは伸ばす側のありようひとつ。
「伸びるものを伸ばさないことのなんともったいないことか」
伸びるときに伸ばしておいてさえすれば、あとは勝手に道を探りあるいは道をつくり自ら伸びてゆくものだと。
伸びるときに伸びきれないから多くはくすぶっているのだと。
公文会長のおっしゃるのはもちろん学力面でのことが大きいと思うのだけど
やっぱり大切なのは学力のその先だと思う。
生きる上では学力は武器であり道具であり、でもある程度はモノを言い、モノを言うのに持っているに越したことはないのだ。
そしてそれにモノを言わせるのには「時間」がかかるのだ。
たいていは。
でも今どんなに時間がかかっても続けてさえいれば必ず伸びる。(伸ばす。)
それに費やす時間は生涯の宝になり武器になる。
その時間を人生最大の「贅沢」といってもいいのではないかと思う。(「投資」という言葉はあまりここでは使いたくない。同義で思ってはいるけど)
そしてその時間を見守れる我々はそれ以上に「贅沢」な時間を過ごさせてもらっているのだろう。
「皮」や「根」など捨てられてしまうところこそ宝、できるだけ汲み取っていきたい。
学びに苦悩はつきものだけどね。
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