すべてはこどもが知っている。「してやる」ことなんてなんもない真理。
前ブログを書いてから、これまで真理としていたものがボロボロとはがれてゆく過程を過ごしていた。
これがなんとも苦痛で。
思考がリニューアルされていく良い傾向であることはわかっているのだけど「好転反応」のつらさたるや。
たとえるなら「生理痛」のあたりどころのない痛み。(しっくりきた!)
娘たちのむき出しのありのままの感情を受け止めるにはまだまだ私は非力で無能すぎたと実感。
こちらも感情を爆発させてしまう→我に返るのループで疲弊してしまいました。
でもその都度、思考のリニューアルがされていき今日になってとりあえず落ち着いた次第。
生理おわったーーーホッの心境です。
この作業でのキモはやはり「こどもの頃の自分と向き合うこと」。
何度かブログに書いて実行してきたけど、まだまだ深いしたりないし、しんどい・・・。
今回向き合うことになったのは「おまえはこどもなんだから」という言葉。
いまこうして書くだけで胸がざわざわする。
当時とても傷ついたから。
家族のなかから自分だけはじき出されたような気持になったのを覚えている。
あともうひとつ、「してやってるのに」「してやったのに」。
あーーーつらい。
自分は決して言わないようにとしてきたけど、言っていた。
そして態度でも示していた。
言わないようにと意識しすぎていたからかもしれない。
言われた悲しみと不可解さがいつの間にか怒りや憎しみに変わっていたとも思う。
向き合うことはとてもつらいけど、いよいよ向き合わなければ前に進めないと思った。
のたうちまわるようなつらさを感じていたけど、とりあえず今はこうしてブログにも書けているし少しは受け入れることができたのかな。
それにしてもなぜオトナはコドモを下にみる傾向にあるのでしょうね。
初対面からコドモには敬語を使わないのに違和感があったなあ、そういえば。
オトナはコドモを経てきてるから経験値からの思い込みなのかなあ。
私は、産んだら「育てなければ!」という使命が稲妻のようにおちてきた。
「育てる」にはたくさんの言い方というか思い方(こんなことばある?)があるなと思う。
今すくなくとも私はルルとモモを「育てて」はいないなと思う。
物理的な面は育ててるというかもしれないけど、それ以外の目に見えない部分はオトナが口を出すところではないと思うようになった。
コドモのほうが圧倒的に多くを知っている。
オトナになるにつれて忘れていったものをまたおしえてくれるためにコドモは生まれるのではないかと思う。
「コドモの将来のために」という大義名分は、田舎にはびこる古参が自分のプライドを守るために必死になっているのと似ている。
自分の非力さを受け入れて、世代の自然な在り方をしていれば誰も傷つかないし無駄な時間や体力を使うこともない。
オトナはオトナなりのでかいからだと手で物理的に育み、危険から守ってやれればいいんじゃないでしょうか。
このブログをはじめたときは、ただただ「公文愛を語ろう!」と思っていた。
娘たちとの日々の実例をまじえておもしろおかしく書いて、誰かが笑ってくれたり、公文に興味をもってもらえたらいいなという軽い気持ちだった。
娘たちをじっくり見るようになると、自分のことまで見ることになるなんて(笑)
まさか!でした。
でも必要だったからこうなったんだと思っています。
そしてこの旅はまだまだまだまーーーだつづくのでしょう。
生理は月のモノですからね。
あー疲れた。
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